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10/04のツイートまとめ

eschenblatt

ずっとやり続けることが大切なんだろうな。最近、いろいろやってるのが、地道にやらないことの免罪符になってる。いかん、いかん。
10-04 09:02

話題はノーベル賞でいっぱいですが、純粋に良かったなと思えるのは、受賞の研究者がこの賞を取るために研究したわけではないというところにあるのかな。意外と人間臭いところもいい。
10-04 08:58

上岡敏之・新日フィル音楽監督就任公演②-9月16日、17日、すみだトリフォニー

 上岡のモーツァルトは実に軽妙である。モーツァルトのあふれ出る才能を、そのままの純度と鮮度で、タクトで引き出している。9月16日、17日の両日、新日フィルの本拠すみだトリフォニーホールで行われた、いわば本拠での音楽監督就任公演の総じての感想ある。
 最初に取り上げられたのは、モーツァルトのシンフォニー33番。31番のパリ交響曲と、35番のハフナー交響曲の間にあり、個人的にもなかなか聞くことのない交響曲である。プログラムノートによれば、、ザルツブルク時代の作品で、宮廷音楽家としてのモーツァルトの姿を知ることのできる作品だそうだ。この時代のモーツァルトの交響曲には、セレナードから改編したものが多く見られ、なんとなくモーツァルトが何に関心を寄せていたのかを感じることもできる。
 演奏は、上岡とオーケストラの会話のようだ。ひょっとしたら宮廷のサロンもこのようなものだったのかもしれない。時代は異なるが、シューベルトを囲んでいるシューベルティアーでの絵画を想像している。始まりは談笑、何にうけたのだろう一斉に笑いが起こる。バイオリンが話題を提供する、オーケストラが、「そうだよね、そうだよね」と応える。「でもね」とバイオリン。「そうか、そうだよね」とオーケストラ。話に花が咲き、話は盛り上がっていく。ここに上岡が出てきて、「きみはどう?」などと水を向ける。さらに話は広がっていく・・・。静止画だった「絵画」が、上岡のタクトともに、動き出し、サロンのようすを目の前に繰り広げてくれる。聴いているこちらも、くすっと笑い、オーケストラのメンバーも互いに目配せをしながら、微笑んでいる。きっと厳しい練習があったのだろうが、目の前にあるのは、そんなことを微塵も感じさせない、本当に、心地のよいサロンである。3楽章は舞踏会かな。終楽章では、会話のテンポも上がってくる。そして、・・・名残惜しいが、お開き。動きは、元の絵画に戻る。
 2曲目は、フランスのピアニスト、アンヌ・ケフェレックを迎えての同じくモーツァルトのピアノ協奏曲27番である。ケフェレックは、上岡が敬愛するピアニストの一人であり、このプログラムが発表になったときに、ケフェレックを上岡で聴けるということに心躍らせた。ピアノ協奏曲27番は、言わずと知れたモーツァルト最後のピアノ協奏曲であり、モーツァルトは、この曲を作曲した年の暮れに亡くなっている。モーツァルトのすべてが凝縮した作品の一つである。始まりは長い序奏、この曲がどのようなものであるかの前口上が優しく語りかけてくるようだ。これを引き継ぐ形で、ピアノが登場する。初日のケフェレックはちょっと堅かったかな。でも、凜として気品のある、しかし優しいモーツァルトを、あふれ出るような演奏で聴かせてくれる。さながら、上岡がこんどはケフェレックとトークをしながら、ケフェレックを紹介し、ケフェレックがこれに応えるかのようだ。公演後、上岡は、音楽は演奏者の人柄であるとケフェレックをたたえたが、本当にこの人を感じさせるすばらしい世界が繰り広げられる。2楽章、そして3楽章は、自然に、ケフェレックが主役に立っている。もはや前口上は不要だ。両楽章とも、冒頭からピアノが始まり、これに上岡が従う。上岡の絶妙なお膳立てにケフェレックが聴衆に語りかけてくる。
 終えてみると、そうか、交響曲33番も、実はこの協奏曲のためにあったのかと気づかされる。どちらも、同じ変ロ長調であり、ピアノコンチェルトへの導入が配慮されている。協奏曲のあと、ケフェレックによるアンコールが、演奏された。ヘンデルのメヌエット。美しく、少しもの悲しいこの曲は、モーツアルトを聴いているときのわくわく感や余韻として残る動悸を、記憶の中に収めてくれる。これで、この演奏会の第一部は終わりである。それにしても、上岡も、ケフェレックも、休符の美しさがある。立ち止まる休符、次につながる休符、余韻を楽しむ休符、休符は雄弁だ。この共通点が、見事に融和した素晴らしい演奏であった。

 さて、後半は、ブラームスである。曲は、シェーンベルク編のブラームスピアノ4重奏曲第1番。これをブラームスと考えるのか、シェーンベルクとみるのかは難しいが、しばしば登場する印象的なメロディは明らかにブラームスのものだ。ブラームスの和音は独特で、メロディの美しさなどから、曲としては取っつきやすいが、一筋縄ではいかない。それがまた、ブラームス独特の響きを作り出している。そんなブラームスの特徴を捉えたオーケストレーションは,時折、ブラームスを超える。独特のブラームスの旋律は、さらにやっかいである。誰しもが演奏できるが、誰しもが演奏できるわけではないような気がする。元が室内楽である点もその難しさを加重している。たとえていうなら、日本の演歌を、ドイツ人が歌うようなものだ。上岡の第二の出身地は、ハンブルクであり、ブラームスの生地でもある。その意味で、ブラームスは上岡の得意とする作曲家であり、もはや日本人の演奏するそれではない。今回の演奏会では、上岡の考えるブラームスを、ドイツ的な雰囲気を含めて、新日フィルが見事の表現していたのではないだろうか。指揮の表現と出てくる音楽への違和感は全く感じられず、とてもクオリティの高い演奏であった。
 割れんばかりの拍手の中、アンコールとして、ブラームスのハンガリー舞曲第1番が演奏された。拍手をする中で、無意識に自然と欲していた曲だ。うねるような弦と、もはや曲芸的なテンポ感のチャールダッシュ?そんな感じのブラームスの世界を繰り広げてくれた。満場の拍手の中で、今日の第2部の演奏会が終わった。
 ところで、後半のブラームスは、アンコールを含めてト短調、前半の変ロ長調の平行調である。さらにいうなら、ケフェレックのアンコールのヘンデルのメヌエットはト短調であるとのこと。この二つの演奏会を一つにしたような演奏会、贅沢な演奏会を堪能した。そんなちょっとした工夫が、安心して演奏会に誘われる。上岡のきめ細かな配慮の行き届いた演奏会。実に面白い。これから,毎月、本当に楽しみである。新日フィルから目が離せない。

上岡敏之の新日フィル音楽監督就任開幕演奏会-2016年9月9日、11日

 上岡敏之が音楽監督に就任して最初の新日フィルの演奏会が、9月9日、サントリーホールで幕を開けた。同演目は、2日後の横浜みなとみらいホールにおいても行われている(便宜的に第1回演奏会という。)。正確には位置づけられていないとは思うが、新日フィルの本拠はすみだトリフォニーホールであるから、就任記念の演奏会は、本当は、9月16日および17日にトリフォニーで行われる演奏会(第2回演奏会)なのかもしれない。その意味では、サントリーは序幕であり、それを踏まえた開幕とそのお祝いはトリフォニーなのだろう。
 そんな思いを強くしたのは、この第1回の演奏会の、「ツァラトゥストラはかく語りき」と「英雄の生涯という」リヒャルト・シュトラウスを代表する交響詩で構成されたプログラムである。ご存じの通り、シュトラウスの交響詩(Tondichtung)は、それぞれ一つの物語であり、そこにさまざまなメッセージを読み取ることができる。ひょっとしたら、そこに、このプログラムを持ってきた上岡の意図があるのかもしれないとの「疑惑」を持ったからに他ならない。この演奏会は、ある種のメタファーであり、本拠をドイツから、日本に移す前に語らなければいけない上岡の決意または思いのようなものがそこにあるのかもしれない。そんなことをふと思った。

 ツァラトゥストラは、30歳になったとき、そのふるさとを去り、山奥に入る。上岡がふるさとを去ったのは、24歳の時であるが、研鑽の後、その活動をドイツで開始するのは、30歳に近い27歳の時である。また、何度も日本公演に訪れてはいるが、ふるさとを去ったのちちょうど30年を経て、「本拠」をふるさとに求めたのである。ツァラトゥストラは、「(ふるさとを捨てた山奥で)みずからの知恵を愛し、孤独を楽しんで、倦むこをを知らなかった。」(水上秀廣訳、岩波文庫。以下、同じ。)上岡は、自分の持てるものだけを信じて音楽に向かい合い、いわば孤独に今の地位を築いた、いや、気がついてみると、今の地位にいたといってよい。「ある朝、ツァラトゥストラはあかつきとともに起き、太陽を迎えて立ち、次のように語りかけた。『偉大なる天体よ!もしあなたの光を浴びる者たちがいなかったら、あなたは果たして幸福といえるだろうか!』」私たちは、音楽によってその喜びを享受するが、演奏するものがいなければ、それはかなわない。演奏する者、聴衆、その存在により、より輝く、そんなことも含意されているのであろうか。「そのためにはわたしは下りていかなければならない。あなたが、夕方、海のかなたに沈み、さらにその下の世界にも光明をもたらすように。あまりにも豊かなる天体よ!」上岡は、ドイツでの30年を通じて、演奏家や聴衆を満たしてきたのだと思うが、同時に自らも満たしてきたのだと思う。「満ちあふれようとするこの杯を祝福してください。その水が金色に輝いてそこから流れ出し、いたるところにあなたの喜びの反映を運んでいくように!ごらんなさい!この杯はふたたび空(から)になろうとしている。ツァラトゥストラはふたたび人間になろうと欲している。」山奥を出たツァラトゥストラは、一人の聖者に会う。「この年老いた聖者は、・・・まだ何も聞いていないのだ。神が死んだということを。」私たちは、常に欧米に敬意を払ってクラシック音楽に親しんできた。クラシックは欧米の音楽、もはやそうしたことは克服されなければならないことなのだ。それを自ら、体現した意思も感じる。「私は人間を愛しているのです」「(人を克服した)超人は大地の意義なのだ」「大地に忠実であれ」・・・いろいろな啓示を読み取ることができる。続く曲は、「英雄の生涯」である。英雄の生涯は、英雄の敵、伴侶、戦場、業績、引退と成就と順を追ってその生涯を描くものであり、今後の上岡の生涯の暗示なのかもしれない。

 もうやめておこう。深読みは禁物だ。第一、私が、ニーチェのツァラトゥストラを読んだのは高校を卒業した直後だ。それこそ40年にはならないが相当昔で、ツァラトゥストラの正確な理解を示すことはできない。
 ともあれ、そんなことを思いながら、演奏会を聞いた。リヒャルト・シュトラウスは、上岡がそう言うかどうかは分からないが、上岡の得意の演目である。すでに、このオーケストラでの「町人貴族」、「家庭交響曲」の他、日フィルでの「アルプス交響曲」、読響での「死と変容」、「4つの最後の歌」、「ドン・ファン」、「ティル」、「バラの騎士組曲」など、日本においても多く取り上げられ、すでに実証済みである。ツァラトゥストラの冒頭は、エネルギーを蓄えた大地の響きであり、その後に続くあまりにも有名なファンファーレは、すべての覚醒を告げる黎明にふさわしい。明るく、曇りのない、寸分の狂いもない音の響きは限りなくすんでいる。室内楽を思わせる弦の響き、音が消えた後まで続く余韻の休符、始まりの前から、そして終わりのあとまで、細部にわたり、また大きなスケールで、ていねいに、しかし萎縮することなく解放された豊かな曲づくりがなされている。圧巻である。「英雄の生涯」における崔文洙氏によるソロも素晴らしい。意識はしていないだろうが、視覚的にも演奏を支えている。上岡と息の合ったパートナーとしての存在感がある。最後の音、最後の休符、上岡がタクトを下ろすまで誰も拍手をしない。長い沈黙の時である。聴衆も心得ているのだろうが、むしろ、聴衆もまた彼のタクトの下にいたのであろう。
 プログラムの演奏の後、珍しくアンコールに応えた。拍手なりやまぬまに始まったのが、シュトラウスの楽劇サロメの7つのヴェールの踊りである。妖艶にして雄弁なこの曲は、オペラ指揮者としての上岡の本領を際立たせるものである。プログラムに入れてもいいくらいの曲であるが、これをアンコールとして聴かせる計らいもよくできている。これだから、上岡の演奏会に足を運ぶのをやめられない。今後の新日フィルのそして新日フィルでの上岡の展開が楽しみである。

おどる、うたう、あそぶ(2016年8月11日、東京オペラシティ近江楽堂)

 かつて(10年以上前のことであるが)、ベルリンシュターツオパーで立て続けにいくつかのバロックオペラを観たことがある。古色蒼然としたものとはいかないまでも、やや古めかしいものを想像して足を運んだところ、実にモダンで、斬新な演出のオペラであった。目をつぶって聞こえてくる音楽と、目の前で演じられているもののギャップが、妙に融合され、慣れるまでに時間がかかったが、何とも不思議な世界が癖になり、何度か足を運んだ。ヘンデルのリナルド、その昔、レッスンを受けたLaccia ch’io piangaは、このオペラの一曲だったんだと知り,帰る道すがら、口ずさんで帰ったのが思い出される。
 さて、今日、オペラシティ近江楽堂で、根本卓也氏構成「おどる、うたう、あそぶ」に聴いた、いや、観た?、ひょっとしたら参加した?良質のバロックオペラのエッセンスの詰まった実に気持ちのいい、豊かな気持ちになる演奏会であった。近江楽堂これもいい。何だろう、上から見ると四つ葉のクローバーのようなつくりなんだと思うが、教会のような雰囲気の、またそのように響く、しかし、近江楽堂などと言う和風の名前のついたホール。妙な融合の舞台としては十分だ。
 冒頭演奏されたのは、あのLaccia ch’io piangaである。ソプラノの高橋維の澄んだ声は、天から降り注ぐように美しい。それに自由だ。この曲、こんなに自由にやっていいんだ。解き放たれたヘンデルの魅力があふれ出る。心の奥にしまわれていたバロックオペラのあのときの記憶がよみがえった。(このソプラノ高橋維は、11月の日生劇場で行われるシモーネ・ヤングのナクソス島のアリアドネでツェルビネッタを歌うことになっている。たぶん、すばらしいツェルビネッタを聴かせてくれるだろう(残念ながらいけないorz。本当に残念)。)
 続いて、演じられたのは、根本のチェンバロによるクープランにのせて演じられるコンテポラリーダンス。演じるのは、中村蓉。百合子の一生というタイトルがつけられている。年老いた百合子が、客席の真ん中と言っていい舞台に置かれたユリの花を手にしたことから、回想が始まる。腰の曲がった老婆からは想像もつかなかった波乱に満ちた、情熱的な過去が、根本が奏でる上品なチェンバロにのせて、次々と回想される。チェンバロ奏者もここでは、出演者である。若き百合子はチェンバロ奏者と恋仲に陥るが、結婚していたことを知り、裏切りに怒り、嫉妬し、失意する。途中、観客もドラマに参加を求められる。私の隣の人が出演者となり、自分が出演者とならなかったことに胸をなで下ろす。回想は終わり、年老いた百合子は去って行く。
 後半は、モーツァルトのフィガロの結婚。佐藤維は、ズボン役として登場、ケルビーノの有名なアリアから始まり、根本の優美なチェンバロで曲をつなぎながら、当時のわがままな歌手によってつけ加えられたとされるアリア2つを歌い継ぐ。ここでも、オペラのダイジェストで聴かせるという趣向である。最後は、「あなたはだれ?」から始まる谷川俊太郎の詩「あなた」。根本が曲をつけ、高橋維がこれを歌う。中村蓉が加わり、佐藤も演じながら歌う。「わたし」が、初めて出会う「あなた」という存在。他者を認識したときの緊張、他者を認識したことで生まれる自我、あなたはかけがえのない存在となり、わたしはあなたを求める。私たち社会の原点を、人間の原点を、優しく詩にしたものだ。
 間近で演じられる演奏会は、「客」として聴いているより、参加感、一体感の強いものであった。その意味で、眼前で繰り広げられるパフォーマンスに参加していたような感覚を覚える。出演者の一つ一つの表情に見入り、息づかいを感じ、体温すら感じる演奏会など滅多にない。なにか、時間をかけがえないものとして過ごすことができ、また、忘れかけていた何かを残してくれた。とてもいい演奏会であった。

上岡敏之×読響の第九

 その始まりには,すでに予感がある。全くもって目が離せない,いや,耳が話せない(いやいや,目も耳も話せない。)。それは喜びであるのか,絶望であるのか分からないが,偉大な結論に向けての予感である。2015年12月18日から26日まで行われた上岡敏之指揮,読売日本交響楽団ベートーベンの第9,始まった瞬間の感想である。
  年末の行事として定着している第9は,アマチュアからプロまで,形式張った演奏会からフラッシュモブに至るまで,まちのBGMも含めると,年末にあの旋律を聴かないことはない。そんな年末の第9の一公演であるが,それは,希有な,極めて鮮烈な体験であった。全てが新しく,全てが予感に満ちている。極端な話,次の音にわくわくするのである。
 上岡に言わせれば,「別に珍しいことをやっているわけではない。」「ベートーベンの楽譜通りに演奏すればこうなる。」という。彼は,どんな曲に対しても,楽譜に真摯に向き合う。楽譜が,演奏家と作曲家を結ぶ唯一の絆と考えているのだろうか。現代の演奏は,過去の「名演」(亡霊)との戦いであるともいう。過去の遺産を知悉している聴き手が,観客や評論家として対峙する。レコード芸術,CD芸術がカルチャーとなってきた日本では特にそうなのかもしれない。私もそうだ。そうしたいわば歴史的夾雑物に信頼を寄せず,作曲家と直接対話をするのが彼のスタイルである。そして,その手がかりが楽譜にある。彼は,口癖のように,「勉強しなきゃ」と言う。会うときには,いつも,勉強していたと言い,別れるときはどんなに飲んでいても,戻って勉強をすると言う。彼の勉強は,楽譜に向き合うことである。
  彼の音楽は,今回の第9がそうであったように,作曲家が曲に込めたエネルギーがあふれ出るようにわれわれの前にあらわれる。そもそも指揮者は,自ら奏でることはない。オーケストラという演奏家たちを通じて表現される。演奏家たちとの協働がなければ実現できないものである。だから,彼は,演奏家を選び,そして,練習を大切にする。今回も,歌手を誰にするかについて多くの時間を割いたようである。また,オーケストラには,通常以上の回数の練習を求めたようである。これに応え,作曲家の意図に共に近づこうとする真摯な営みと協働が,あの感動的な演奏会を生み出す。ただし,上岡の演奏は,彼にとって絶対ではない。「テンポ,表現は,夜の演奏と,マチネーでは自ずと異なる。」「ホールによっても違う。」と,上岡は言う。演奏家の意図を歪曲することは決してないが,客とのコミュニケーションの場であることも忘れてはいない。今回,3公演を聴いたが,その違いや進化にも驚かされる。
  一口で言うと,確かに,速い演奏であったが,それが問題なのではない。あの始まりから感じられる予感,次の音への期待。2楽章の終わり・・・。流れるような曲の展開には,風を感じる。ライン川に流れるに薫風のようだ。彼の田園を聞いたときに感じた感覚にも近い。あのメロディはトゥッティにおいて気高く,喜びに満ちている。不協のトゥッティ。そして,「友よ,そんな調べではない。そうではなく・・・」一瞬の沈黙から始まるあのソロは極めて説得的だ。合唱を含むと教会のオルガンのような豊かな響きが歓喜の歌を歌い上げ,最後は,あの予感は,このことだったのだとの確信に変わる。この新しい感動はしばらくは続くだろう。

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