明日から、上岡敏之/読響公演が始まる。16日月曜日は、オペラシティでの名曲シリーズ、17日火曜日はサントリーホールでの同シリーズ、そして、25日はサントリーホールでの定期公演である。曲は、名曲シリーズではR.シュトラウス、定期公演ではマーラーの4番である。
少し前の上岡の日本公演は、ベートーベン、モーツァルト、ブラームスといった曲自体として誰もが知っていて、多くの人が好きな曲がプログラムとして組まれていたが、最近は、今回の名曲シリーズも含めて、上岡の指揮で聴いてみたいと思う曲が並べられているというのが特徴である。上岡という指揮者が指揮者として認知されてきたということであろうか。
マーラーは1昨年のヴッパータール響公演の5番が記憶に新しく、R.シュトラウスは、2009年の読響でのバラの騎士組曲は本当に印象深く、そして、新日フィルでの町人貴族、家庭交響曲もリアルに思い出される。上岡のマーラー、R.シュトラウスをもっと聴きたいと思った方も多かったと思う。その意味で、今回の公演は本当に楽しみである。
公演を前にして、上岡と再会を祝して杯を傾けたが、飲んでいても、「勉強をしなきゃ」という言葉が何度も口をついて出てくる。もちろん彼の「勉強しなきゃ」という表現は、勉強をしていないという意味ではない。指揮者もキャリアを重ねると、どういう演奏をすれば、聴衆が喜ぶかはわかるようになるという。しかし演奏するということはそういうことではないと、彼は言う。これまでの演奏の反省も含めて新たな目で見直し、自分の体のすべてからその曲が自然にあふれ出るようになるまで楽譜に向かい合う。それが彼の言う勉強である。そうした中で、気づかなかったことに出会うこともあるそうだ。作曲者が考えていた曲を超える演奏があるはずだとも言う。上岡という指揮者は日々新たな境地に向かって進化している。
上岡敏之という指揮者は本当に魅力的な指揮者である。常に新鮮な目で音楽に向かい合い、それを表現し、聴衆を魅了する。彼の音楽は、オーケストラを使って紡ぎ出されるが、オーケストラのメンバーそれぞれがやりたい音楽としてそれが表現されているのも、彼の持ち味かもしれない。
昨日の上岡=東フィルによるシューベルトプログラムは、素晴らしかった。むしろゆったりとしたメランコリックな「未完成」。いとも悲しくそこに流れる歌と音の響きが、青年の言葉と言葉では表現できない青年期の不安を描いているようであった。つづく、8番「グレート」では、みずみずしい、抑えきれない、あふれ来る思いが次々と表現され、絶妙なテンポの変化と共に多感な青年の思いをほんとうに良く表していた。あー!言葉では尽くせない!この曲にこんなにワクワクしたことがあったであろうか。シューベルトはほんとうにロマン派の作曲家なんだ!
今回の演奏を前にして上岡は、青年作曲家としてのシューベルトをイメージしていると語っていた。「爺さんのじゃなくて・・・、若い、青年の・・・」というのは彼独特の表現だが、「巨匠指揮者の」シューベルトではなく、「若い、青年シューベルトの」シューベルト!指揮者のではなく、作曲家の音楽を復権させるところに彼の基本姿勢がある。
上岡は、われわれが想像する以上に、譜面を読み込んでいる。同じ曲でも、演奏会が変われば、新たに譜面に向き合う。だからいつも新鮮なのだ。楽譜の選び方も特徴がある。今回のシューベルトのシンフォニーの楽譜は6版を重ねている。彼は、ブラームスが校訂したとされる最初のブライトコップフ版を使っている。版を重ねるというのは、曲の理解の進化を示すが、解釈に解釈を重ねた結果ともいえる。言い方をかえれば、彼は、最も手垢のついていない最初の版を選んでいるとも言え(ブルックナーの時もそうであった。)、彼の曲に対する姿勢を垣間見ることができる。
もっとも、彼は考古学者でもなければ、時代考証人でもないので、古楽器での演奏などはしないし、初版を忠実に再現するわけではない。作曲家およびその曲に向かう出発点をそこにおいているのだ。そして、そこから徹底的に楽譜に向かい合い、作曲家とその曲と対話をし「音楽」を紡ぎ出す。
ところで、そうした上岡が紡ぎ出す音楽の聴衆であるわれわれにも実は作法がある。いうまでもなく、クラシック音楽好きは、たくさんのレコード、CDを聴いている。演奏会で演奏されるたいていの曲は聴いたことがあるし、聴き慣れないない演目の時など、予習なぞしたりする。そして、一定の曲のイメージをもって、そこから演奏会を語る(それはそれで楽しい。)。ちょっと気取って演奏を批判をする時は特にそうである。
上岡の演奏に接する時、そうしたイメージが実は耳垢であることに気づかされ、曲についていたたくさんの手垢やサビを取り除いていくと、実は原石はこんなに輝きをもった美しいものである!ということに、ハッと気づかされる。
気づかされるのだから、どんなに意地悪く、頑固に聴いても、結果は同じなのだが、どうせ同じ境地になるなら、自分がこれまでもってきた曲のイメージはそれはそれとして持ちつつ、ある一つのスタンダードな解釈にすぎないのであると思って、どんな音楽を聴かせてくれるのだろうとワクワクしながら演奏会に行くのがよい。だから、上岡の演奏会はやめられない。今日と明日もまた違うのである。
2008年3月28日、ヴッパータールのシュタットハレで、日本の若きバイオリニスト神尾真由子を客演として、上岡敏之指揮、ヴッパータール交響楽団のチャリティコンサートが開催された。公演の様子が、ヴッパータール新聞を紹介する形で送られてきたので紹介しておこう。引用されているのは、2008年4月1日付ヴッパータール新聞のVeronika Pantel さんの記名記事である。
なお、
英楽館に、聴きに行かれての所感が掲載されているので、参考にされたい。
(以下、Webassitentinによる仮訳)
ヴッパータールでの競演心身ともに疲れた仕事の後で,楽器を演奏したり,合唱を歌ったり,コンサートを聴きにいく人であれば、音楽が心の調子を整えたり、人に刺激を与えたりする効果があることを知っている。音楽療法もまたこうしたの治癒効果を利用した方法である。シュタットハレで、ヴッパータール交響楽団は、音楽家としての活動を障害者や高齢者ができるようにしているフォルマールシュタインとヴッパータールの施設を支援するチャリティーコンサートを開いた。
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2007年11月28日、上岡敏之/ヴッパータール響日本公演と同じプログラム(モーツァルトピアノコンチェルト23番、ベートーベン交響曲第5番「運命」)がミラノで再演されている。弾き振りなど、主催者のたっての希望ということであるが、その様子も含め、「西ドイツ新聞」に掲載された。原文は、
西ドイツ新聞ニュースライン2007年12月3日のAndreas Lukeschさんの記名記事である。
(以下、Webassitentinによる仮訳)
Kamioka、世界に凱旋
ヴッパータール交響楽団はイタリアの“音楽の都”ミラノで公演し、1600人の聴衆を魅了した。ヴッパータール。その男は一つの事件である。そこから誰も逃れられない。楽団員であれ、聴衆であれ、。上岡敏之は人を魅了せずにはおかないのだが、その彼が必要としている唯一のものは、最高のオーケストラである。ヴッパータールで彼はそれを見つけ、楽団員と指揮者が、「仕事関係」を遙かに超えて、今や共生を始めている。その新たな境地に驚かされる。
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上岡敏之&ヴッパータール交響楽団の来日公演を終えて1週間になる。全体的な雑感を書きたいと思っていたが、それより、上岡が、どのようにこの公演に臨んでいたのかをかいま見ることができる「西ドイツ新聞」の記事を紹介しておこう。以前、
Aurorapianoさんに紹介していただいた記事なのだが、私自身、少し戸惑いも覚えながらそのままにしておいたものである。
原文は、
西ドイツ新聞ニュースライン2007年10月15日のMartina Thoeneさんの記名記事である。
http://www.wz-newsline.de/sro.php?redid=179375(以下、ウェッブマスターによる仮訳)
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